忠臣蔵

1703年(元禄15年)12月14日は赤穂事件が起きた日です。

赤穂浪士たち47人が吉良邸に討ち入り、その首を採ったという事件です。この一連の事件は

人形浄瑠璃や歌舞伎の演目で「忠臣蔵」という創作作品に仕立てられ、現在でもこの時期は

映画やドラマが放映されています。

通説では京都からの勅旨饗応役を仰せつかった浅野長矩に対し、その指南役であった吉良

上野介義央が意地悪をし(長矩から吉良への謝礼が少なかったこと)、それに腹をたてた長矩

が、江戸城松の廊下で吉良に切りかかり、キズを負わせます。

一方的に長矩に非があるとされ、長矩は切腹、浅井家は断絶させられたのにもかかわらず、

吉良側はお咎めなしだったことへの報復として、討ち入りが行われたということになっています。

でも最近は、これは間違いではないかという見解がでてきています。

そもそも幕府は赤穂藩の取り潰しまでは考えておらず、喧嘩両成敗で納めたかったのですが、

肝心の長矩が事件の真相を語らずじまいであったため、切腹をもうしつけざるをえなかったのだ

とか。

あまりにも謎の部分が大きかったため、かえっていろいろ想像を掻き立てられ、「忠臣蔵」ができ

あがったのだとか。

歴史というものは面白くて奥が実に深いものですが、いかんせん真相は闇の中。

何が正しくて何が間違っているのか、考えているとわからなくなってきますね。

 

uchiiri

カテゴリー: 大原   パーマリンク

コメントは受け付けていません。